鎌倉文士と呼ばれるほど、鎌倉は文士との縁が深い。
当然、鎌倉市内のあちこちに文人の住まいがあった。
さて今日はその文人達に愛された鎌倉の名刹のなかでも
文人が投宿してその作品を描いたことで知られるのが
円覚寺(えんがくじ)
なのである。
円覚寺の開堂供養が執り行われたのは、弘安五年(1282年)で、
唐様(からよう)ともいわれる禅宗様(ぜんしゅうよう)の伽藍配置を擁していたといいます。
※禅宗様(ぜんしゅうよう)の伽藍配置とは?
総門・山門(三門)・仏殿・法堂・方丈が一列に並ぶ。
他に、軒の反りー即ち「軒反(のきぞ)り」にも違いが、ある
これは次回のBlogで!
さて739年前に建てられたこれらの伽藍は、室町時代になると度々火災に遭い
1563年の大火で古い建物は失われたといいます。
舎利殿は鎌倉市西御門にあった尼寺・太平寺(廃寺)からの移築で、今は国宝に指定されています。
法堂は再建されなかったそうです。
そうやって廃れた円覚寺ですが、明治以降、今北洪川、釈宗演の師弟によって再興され
関東屈指の禅道場になったという。
国宝は舎利殿の他に、梵鐘があり、「洪鐘」とかいて「おおがね」と呼ぶ。
ではその、洪鐘を先ず見に行きます。
洪鐘
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洪鐘(国宝)木札
この当時、この洪鐘(おおがね)を鋳造するには、大変な苦労があったことがあちこちの文献に見られる。
この木札には
『北条時宗の子、貞時が国家安泰を祈願して鐘の鋳造を鋳物師に命じたが、鋳造がうまく行かなかった。
それで、江ノ島の弁天様に7日間参詣したところ、ある夜、夢の中で、「円覚寺の白鷺池の底を掘ってみよ」
と言うお告げがあり、その通りにしてみると、池の底より龍の頭の形をした金銅の塊が出てきた。
それを鋳造してこの洪鐘を造った』とさ。
なんとも不思議な話です。
池の底から金銅の塊が出てきたとか、その塊が龍の頭の形をしているとか
今の世の中だったら、SNSに上げたら、すぐ100万回どころか1億回再生も夢じゃない話ですね。
昔は、そんな摩訶不思議な話がよく出てきますが、その真贋は確かめようもないので
「ふーん」で終わってしまいますが、
ぜひこの世でも、国民に嘘ついている悪い政治家の舌を引っこ抜く龍が現れたなんてことはないでしょうかね?
江ノ島の弁天様に7日間参詣しなければダメですかね。
開堂が1282年、洪鐘(おおがね)鋳造が1301年、約20年後ですね。
そして、今年で720年目。
今から720年前に鋳造された大きな金属の鋳物が現存しているというのは、
あの第二次世界大戦で日本全国で金物や鉄などが供出命令を受けて、無くなった中にお寺の金物もあると言いますから
ここはそれをくぐり抜けたということなんで、感動しますね。
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洪鐘への階段、これがきつい
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途中から振り返ってこれまで上った階段をしみじみ眺める
そして、これが洪鐘(おおがね)
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洪鐘
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建築的には、柱は修繕されているが、梁の経年劣化が著しく思う
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洪鐘の目前にある弁天堂
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円覚寺弁天堂由来
この弁天堂脇には、茶屋があって,一服できる。
人がいらっしゃったので撮影を遠慮したが、眺めはすこぶるよい。
晴れた日は富士山が見えるとのこと。
今日は残念ながら見えなかった。
さてこの洪鐘から元来た道を引き返し、少し戻って山門近くの坂を上がった所に帰源院という塔頭がある。
ここが、今回、目指す所です。
帰源院本堂と夏目漱石
山門の右手の道を上がっていくと、左手に最初に見えてくるのが帰源院の山門が現れる。
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茅葺きの山門である
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山門の額ーなんて書いてあるかよく分からなかったけれど、『萬法帰源』と書いてあるとのこと。
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帰源院本堂
帰源院本堂は、「庭内漫歩漫写お断り」となっているので残念ながら、遠くで見るだけしか出来ません。
近寄っても行けないのかも知れませんので、遠くから写真撮影だけにしました。
ここは、第38世傑翁是英の塔所となっていて、本尊は仏慧禅師(傑翁是英)だそうです。
夏目漱石や島崎藤村が参禅したことで知られていて、漱石の小説『門』に登場する一窓庵はこの帰源院がモデルである。
門柱の左側には「鎌倉漱石の会」の看板があります。
でこの門を潜ると、有るのは帰源院本堂ではなく、別棟の茶室であることに注意。
この別棟は、劇作家の「真船 豊」が住んでいたことがあります。
その前を通り過ぎた奥に帰源院本堂があり
境内には漱石の句碑がある。
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夏目漱石句碑
佛性は 白き桔梗に こそあらめ (漱石)
碑は京都北山産の自然石で、高さ90㎝、横幅1800㎝で,重さ約2.5トンです。
1962年に「鎌倉漱石の会」によって建立された。
さて、夏目漱石は1894年12月27日頃から1895年1月7日まで、この円覚寺に参禅して、この帰源院に止宿したとあります。
漱石が生まれたのが1867年。里子に出されたり養子に出されたりして、
その後夏目家に復籍するのは21歳の1888年。
府立一中(現在の都立日比谷高校)に入学も中退し、その後、大学予備門(後の一高、現東大教養学部)に入学する。
正岡子規とはここで知り合っている。
その後、1890年帝国大学(後の東京帝国大学)英文科に入学。
卒業したのが帰源院本堂に止宿する一年前の、1893年。
卒業して大学院に入ると同時に専門学校や高等師範の英語教師になったとあります。
大学院はその後どうなったのかの記述はありません。
1891年、帝国大学2年生の時に三兄の妻の登世と死別。
これが夏目漱石に大きな転機をもたらしたと言われています。
登世に恋心を抱いていた漱石は心に深い傷を負ってしまった。
そして、肺結核にもなり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになった。
そこで、親友の菅虎夫に相談し、1894年〜95年、円覚寺で釈宗演の下に参禅をしたのですが、悟りを得ないまま下山したとあります。
この釈宗演は、日本人の僧として始めて「禅」を「ZEN」として欧米に伝えた禅師として知られています。
参禅した主な居士の弟子として、この夏目漱石の他に、鈴木大拙、徳川慶久などがいます。
因みに、弟子ではないもののこの曹洞宗の僧侶としてアメリカに渡った乙川弘文がいます。
アップル社のスティーブ・ジョブズとの交流でも知られ
ジョブズとローレン・パウエルの結婚式を司った。
さて脱線続きで、スティーブ・ジョブズの次の言葉を紹介します。
ZENに影響を受けたことが良く分かる一文です。
ジョブズ氏がスタンフォード大学で2005年に行った有名な講演です。
『過去33年間、私は毎朝鏡の中の自分に向かって
『もし今日が自分の人生最後の日だったら、今日やろうとしていることをやりたいと思うだろうか』
と問い掛ける。そして答えが「ノー」の日が続いたら、何かを変えなければいけないと思う。
自分はいつか死ぬと思い続けることは、私が知る限り、何かを失うかもしれないという思考のわなに陥るのを防ぐ最善の方法だ』と
禅の自力本願の思想が分かりますか???
さて本題に戻って、夏目漱石が参禅した体験は、
「門」や「夢十夜」の中に描かれています。
「門」より
宗助(漱石)、宜道(帰源院雲水釈宗活)、老師(円覚寺管長の釈宗演)
十八
・・・・
山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。
その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚った。
静かな境内の入口に立った彼は、始めて風邪を意識する場合に似た一種の悪寒を催した。
彼はまず真直に歩るき出した。左右にも行手にも、堂のようなものや、院のようなものがちょいちょい見えた。
けれども人の出入はいっさいなかった。ことごとく寂寞として錆び果てていた。
宗助はどこへ行って、宜道のいる所を教えて貰おうかと考えながら、誰も通らない路の真中に立って四方を見回した。
・・・・
山の裾を切り開いて、一二丁奥へ上るように建てた寺だと見えて、後の方は樹の色で高く塞がっていた。
路の左右も山続か丘続の地勢に制せられて、けっして平ではないようであった。
その小高い所々に、下から石段を畳んで、寺らしい門を高く構えたのが二三軒目に着いた。
平地に垣を繞らして、点在しているのは、幾多もあった。
近寄って見ると、いずれも門瓦の下に、院号やら庵号やらが額にしてかけてあった。
宗助は箔の剥げた古い額を一二枚読んで歩いたが、ふと一窓庵から先へ探し出して、
もしそこに手紙の名宛の坊さんがいなかったら、もっと奥へ行って尋ねる方が便利だろうと思いついた。
それから逆戻りをして塔頭を一々調べにかかると、一窓庵は山門を這入るや否やすぐ右手の方の高い石段の上にあった。
丘外れなので、日当の好い、からりとした玄関先を控えて、後の山の懐に暖まっているような位置に冬を凌ぐ気色に見えた。
・・・
十九
・・・
蓮池を行き過ぎて、左へ上る所は、夜はじめての宗助に取って、少し足元が滑かに行かなかった。
土の中に根を食っている石に、一二度下駄の台を引っ掛けた。
蓮池の手前から横に切れる裏路もあるが、この方は凸凹が多くて、
慣れない宗助には近くても不便だろうと云うので、宜道はわざわざ広い方を案内したのである。
玄関を入ると、暗い土間に下駄がだいぶ並んでいた。
宗助は曲んで、人の履物を踏まないようにそっと上へのぼった。
室は八畳ほどの広さであった。その壁際に列を作って、六七人の男が一側に並んでいた。
中に頭を光らして、黒い法衣を着た僧も交っていた。他のものは大概袴を穿いていた。
この六七人の男は上り口と奥へ通ずる三尺の廊下口を残して、行儀よく鉤の手に並んでいた。
そうして、一言も口を利かなかった。
宗助はこれらの人の顔を一目見て、まずその峻刻なのに気を奪われた。
彼らは皆固く口を結んでいた。
事ありげな眉を強く寄せていた
。傍にどんな人がいるか見向きもしなかった。
いかなるものが外から入って来ても、全く注意しなかった。
彼らは活きた彫刻のように己れを持して、火の気のない室に粛然と坐っていた。
宗助の感覚には、山寺の寒さ以上に、一種厳かな気が加わった。
・・・・
以下、二十三まで続きます。』
初出:「朝日新聞」 1910(明治43)年3月1日~6月12日
底本:「夏目漱石全集6」ちくま文庫、筑摩書房 1988(昭和63)年3月29日第1刷発行
その後、1897年の夏に鎌倉の材木座に1ヶ月ほど滞在したとあります。
尚、帰源院では、毎年春と秋に漱石を偲ぶ会が開かれていて、
「鎌倉漱石の会」により「夏目漱石と帰源院」という小雑誌が発行されているそうです。
今年は、この新型コロナ禍で「偲ぶ会」はどうなるのでしょう?