カメラが趣味の父が遂に手に入れた念願の一眼レフNikonFで獲った最初の写真(と思われる)

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しげ婆物語

母親の話をします。

彼女の名前はシゲという。

彼女が育ったのは北海道の開拓農民が切り開いた狩太町桂台の山奥で、貧農さながらの開拓者家族の一員でした。

母の母、すなわち祖母は、

博打の才能に恵まれた彼女の父が、博打の糧に巻き上げた農耕用の馬を使って、

馬喰によって身を立て、そして町一番の土建業者に成り上がっていった。

昭和20年代の狩太(現ニセコ)町の市街地と雪の上を引く馬橇。正面はニセコアンヌプリ。右の小屋みたいな家がかっての馬喰大槻組

恐らく30になったくらいの父と母

その父の長女として生まれた彼女は、誰でも無い父のために

放蕩三昧の挙げ句の果て、肝硬変になって余命幾ばくもない父のために、結婚を決意する。

長男は、敗血症で急死し、跡取りがいなかったのである。

当時、終戦直後の狩太町(後のニセコ町)には、疎開していた大勢の若者がいた。

町の娘たちのあこがれの若者がいた。

 

そんな若者を射止めた彼女のその後は、町一番の有力者になっていく夫に驚きと自負もあったが、同時に一抹の不安もあった。

あれ程騒がれていた男だが、自分の夫になると決意し結婚する際、嬉しそうな顔を見せなかったことである。

しかし、順風満帆に4人の子に恵まれ、土建業者として町一番どころか後志で有数の大きさになったのである。

当時まだ北海道の片田舎で肘や膝に継ぎ接ぎの当たっていない服を着ている子はまれな時代にあって、

札幌のデパート丸井に行ってバーバリーのコートを子ども達全員に買ってやったりできる裕福な家族になっていた。

子ども達も、当時、若者の憧れのプリンスのスカイラインGT−Bで送り迎えされていたので有る。

所がしげが47才になったとき、不幸が襲う。

夫が蒸発してしまったのである。

無借金経営をしていたものの貯金は全額引き落とされていた。

99%できあがっていた工事も完成間近で検査を受ける前に出奔してしまったのである。

未完成工事の代金の3,000万円が契約不履行で差し押さえられてしまったのである。

再建目指して後を継いだ息子もまだ二十歳前で後継ぎと見なされず、厳しい選択を迫られた。

所有していた多くの土地や家屋を全て売り払い、住んでいる家を残して約1,000万円の借金が残った。

その借金を直ぐ返せという債権者を前に、その息子は、頭を居間のの床板にこすりつけて延べ払いを懇願した。

そして、このままでは一家が路頭に迷ってしまう、どうしようかと思案の日が続いた。

女学校しか出ていず、家事手伝いで家庭に入った社長夫人シゲにも、

そして東京から急遽駆けつけた大学に入ったばかりの息子にも容赦の無い現実が突きつけられた。

実務経験は全くない若造に、収入の道も限られていた。

明日食う飯にも事欠く有様とは、このことという生活に直ぐ直面した。

手っ取り早く金になる仕事は土方するしか無かった。

昨日まで30人を超える常雇い人夫を使っていた土建屋の息子ではあったが何も稼ぐ手段が無かったから、

自らがその土方となって生活費を稼いだ。

その息子だけに土方をさせる訳にはいかなくて、自らも収入を増やすために、土方(下働きのようなもの)となったのである。

私はそんなシゲの4人の子の一人だった。

妹や弟たちが高校を卒業し、借金を返す目処をつけるまでの4年間、私は母と一緒に土方の仕事をして働いた。

その間、私は、母と私の適応能力と勇気(夫が、私にすれば父が、蒸発した悲しみとも向き合わなければならなかったことを考えればなおさらだ)を誇りに思っていた・・・

と言えればどんなにいいだろう。

けれども現実は違った。

誇りに思うどころか恥に思っていた。

土方なんて、母の品位を貶めるものだと思ったし、何より自分が恥ずかしくてたまらなかった。

母がスコップを片手にベルトコンベアに土を盛ったり(その為、後にそのベルトコンベアが崩れ落ちてきてその下敷きになってしまい、半年間入院することになるのだが)

とにかく土方の仕事をしているのを通りがかった町の人達に見られるのは屈辱的だった。

家族のためにつらい仕事をする母、そして私自身も見栄を張りたい、19の年頃に人前に出ることも出来ずに汚れる土方という仕事に、到底喜びなど見いだせなかった。

私が文句を言ったり、悩んだり、辛そうな顔をしたりすると、母はこういうのだった。

「この仕事をしなきゃ食っていけないの。これがお前と私の仕事。これで私たちは食っていけて暮らせる。それしか今は方法がないのだから、我慢して」と。

今でも一番恥ずかしい思い出は、当時汽車で通っていた倶知安駅の駅頭で、同窓のクラスメイトに出会うことだった。

夏休み(当然私にはそんなものはないが)に大学に入った連中が私を見るなり蔑んだような哀れみをもった目で

「〇〇も落ちるところまで落ちたな」とささやかれた事を。

当時、町に残って二浪中の友人から聞いたときだった。

ぱりっとした背広をきて「どうだ」と言わんばかりの元クラスメイトを見ないように、

駅の改札を出るのは一番最後であり、駅舎沿いの細い裏道を(少し遠回りになるのだが)人目につかないように

足早に駆けていく私の姿はたった一着の着古して継ぎ当てだらけの作業着と長靴姿、肩にかけたナップザックには

洗って何度もつくろった後のある軍手(今なら10足で200円もしないで売っているあの軍手)と

土方弁当(アルマイトで5センチの高さはある角型のいわゆるドカベン)が入っている。

恥ずべきなのは、自分の考えであり、自分のふるまいだったと気づいたのは東京に来て夜間大学を出て、中央設計に入ってしばらくたってからだった。

私は自分が何故こんなことをしなければならないのかと、そのことに腹を立てていたけれど、

華やかでないにしろ堅実な家庭を築き町の中では権勢をほしいままにしていた土建業者の社長夫人としての立場を捨て、

叶えられない数々の夢をあきらめていたのは、母の方だったのにだ。

母ほどの人間なら、社会がもっと価値を認め輝かしいキャリアウーマンとしての経歴を築くこともできたはずだ。

あの頃、土方として働く自分や母をあれ程恥ずかしく思っていた私だが、今では母の本当の姿が見える。

身を粉にして働き、愚痴る私を支え、そして子ども(弟や妹)や祖母のために膨大な犠牲を払ってくれた女性、それが私の母なのである。

皆さんはそのシゲとは全く違う道を歩むはずです。だが彼女の物語から何か教訓を学ぶことはできないでしょうか。

これまでの人生で、皆さんは多くの人に支えられてきたと思います。

あなたのために自分の夢や希望やプライドを犠牲にして助けてくれた人がいる。

穴掘りやベルトコンベアに土を盛ったりの土方程ではないにしても、

懸命に働き、並々ならぬ犠牲を払ってくれた人達。

そうした犠牲を払ったのは決して私の母だけに限らない。

皆さんが今務めているこの会社、中央設計には部長や室長や受付係の人も入れば役員もいて、総計60名余の社員達がいます。

あなたの会社が、そしてあなた自身が生活もでき、発展もし、利益を生むことができているのはこうした人々の助けや援助があってこそ、です。

これらの人達は、自分のため、会社のために一生懸命働いています。

そして同時にそれぞれの家で待つ家族のためにも働いたり犠牲を払ったりしています。

会社を辞めたくなったり、誰かとうまく行かないとか思ったり、誰かを叱りそうになったり、誰かを殴ってやりたいとか思ったら、

どうかシゲ婆物語を思い出してほしい。

皆さんがたが、一緒に仕事をしている社員や役員はただの一という数字ではない。

皆現実に生きている人間なのです。

それぞれが誰かの息子や娘であり、父親や母親でもある。

一人一人が誰かの幸福を願って額に汗し、犠牲を払っている。

こうした人達にもあなたのために尽くしてくれた人に対してと同じく敬意と思いやりを示してほしい。

彼らの中にもきっとシゲがいる。

母が私の人生を大きく変えてくれたように、愛する人の人生を変えた人がいるに違いないのです。

(中小企業家同友会で合同新入社員歓迎会にて、新入社員に贈った言葉でした。)

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