戦前(明治初期から中期)の大船近辺の様子がどうだったのか、現在と比べる地図を入手しました。
鎌倉市の玄関と新しい街並みとして発展してきた大船
鎌倉市は閑静な住宅街としても、古都の面影を今にも伝える観光地の玄関としても人気が高い。
鎌倉市の人口は約17万3千人弱。
隣接する横浜市は人口が約370万人。
鎌倉市と横浜市の境に位置する大船駅
そうした立地的な特性から、1日平均乗車人員は9万8926人(2019年度)で
鎌倉駅の4万3183人(同)を大きく上回る。
大船駅は東海道本線や湘南新宿ラインのほか横須賀・総武線、京浜東北・根岸線、横浜線などが発着している。
JR線以外にも江の島へのアクセスを担う湘南モノレールが1970年開通して運用している。
また、短い期間ながら、過去にはドリーム開発のドリームランド線という、半ば伝説化したモノレールも運行していた。
戦前の大型再開発計画
現在、大船駅の東口駅前は繁華街化しており、飲食店やコンビニ、商店街などが立ち並ぶ。
また、駅から徒歩10分ほど歩けば閑静な住宅街が広がる。
鎌倉市の端に所在しながらも、大船駅は鎌倉駅をしのぐ存在になっている。
なぜ、大船駅は鎌倉市と横浜市の境界上に位置し、両市の中心市街地とは離れているのに今の発展を遂げたのか。
その最大の理由は、鉄道を中心とした交通の要衝となっていることだと言われている。
しかし、それだけで大船駅界隈の発展の歴史を語ることはできない。
大船駅が開設されたのは、1888年(明治21年)。
翌年1889年には東海道本線が全線開業を果たし、同時に、横須賀線の大船―横須賀間も開業し、分岐駅となる。
横須賀線は帝都・東京と軍港・横須賀とを結ぶ、大日本帝国にとって重要な路線だった。
それだけに、多くの政府要人・軍人が横須賀線を利用した。
また、古都・鎌倉への通り道だったこともあって旅行者の利用も多かった。
利用者が多いことから、駅開業直後の1898年に大船軒が駅構内で駅弁販売を開始している。
大船軒はサンドイッチを販売した老舗でもあるが、地元では鎌倉ハムのメーカーとしても知られる。
軍事と観光でにぎわう大船の街に変化の兆しが出てくるのは、大正半ばからだ。
9代目・渡辺治右衛門が率いる渡辺財閥が、大船駅周辺に住宅街を計画する。
金融業を柱に、明治期から財界で存在感を大きくした渡辺財閥は新事業として不動産業に乗り出していた。
渡辺財閥が最初に開発した住宅街は、JR山手線の西日暮里駅に近い一画だった。
ここは、日暮里渡辺町(現・西日暮里9丁目一帯)と呼ばれた。
しかし、日暮里渡辺町は全体の面積が約3万坪と小さく、そのために道路の最大幅員も4間以下にしか設計できなかった。
スケールの小さな住宅地開発は、渡辺財閥にとって不満が残る結果に終わった。
次なる住宅地開発として、渡辺財閥が着目したのが大船だった。
渡辺財閥は住宅地開発を目的とする大船田園都市株式会社を1921年に設立。
造成地を“新鎌倉”と命名し、リベンジマッチに挑む。
大船田園都市の社長には、9代目・渡辺治右衛門の3男である渡辺勝三郎が就任。
さらに治右衛門の5男・六郎を専務に迎え、六郎は2年間にわたって欧米を視察した。
そのほか、経営陣には都市開発に造詣が深くアメリカ留学の経験をもつ資生堂社長の福原信三を、
住宅計画・設計担当者には元宮内省建築技師だった山田馨を抜擢した。
大船田園都市で辣腕を振るった山田は、その後に東京・田園調布を開発した田園都市株式会社にも在籍したほか、
富士山麓電気鉄道(現・富士急行)でも建築技師として活躍している。
田園都市開発計画は幻に
陣容を整えた渡辺財閥は、今度こそは理想の住宅地開発を実現できると思われた。
しかし、1923年に関東大震災が起きたことで状況は一変する。
震災で東京市内が灰燼に帰したことは言うまでもなく、横浜や鎌倉でも甚大な被害を出した。
大船も関東大震災で壊滅し、住宅地の再建はままならなかった。
渡辺財閥が手がけた住宅地の売れ行きは滞り、さらに恐慌が渡辺財閥を追い込む。
1927年、大蔵大臣の片岡直温が、破綻していない東京渡辺銀行を破綻したと失言。
この発言が引き金となり、同行で取り付け騒ぎが勃発。
この取り付け騒ぎが拡大したことで、本当に破綻に追い込まれる。
財閥の根幹をなす銀行が破綻したことで、渡辺財閥そのものが歴史の舞台から退場させられた。
こうして、大船の田園都市開発も幻と化した。
大船駅前に次なる開発機運が訪れるのは、震災の記憶も薄らいだ1934年頃だった。
震災からの復興が進んだ東京は、明治期よりも過密化が深刻化していた。
東京市は、過密対策で工場を郊外に移転させるような都市計画を策定する。
東京市の方針により、工場は続々と郊外に移転。
それまで純然たる農村地帯だった板橋区や蒲田区(現・大田区)には町工場が次々と移転してきた。
工場が移転してきたことで、農村から工業都市へと様変わりした東京郊外だったが、工業化に伴うハレーションも起きていた。
蒲田に撮影所を構えていた松竹は、工場の騒音によって映画撮影に支障をきたすようになっていた。
そうした事情から松竹は新天地を探し、白羽の矢を立てたのが大船だった。
松竹は約7万坪の土地を購入。
また、大船町は地域振興のために約2万坪の土地を松竹に寄付した。
大船田園都市に比肩する不動産を得た松竹は3万坪を撮影所用地とし、1936年に撮影所をオープンさせた。
残り6万坪は住宅用地として整備した。
この頃より大船は“東洋のハリウッド”と呼ばれるほどに映画産業が活発化した。
当時、大船駅の繁華街は西口側に形成されていたが、松竹の撮影所は東口に誕生した。
これにより、映画関係者の出入りを見込んで東口側が一気に開発されていく。
松竹は、不動産会社の松竹映画都市株式会社を新たに設立。
映画会社としても不動産会社としても大船駅の発展に欠かせない存在になる。
ただ、松竹が造成した映画都市には映画監督や俳優などが居住することはなかった。
そのため、“東洋のハリウッド”と呼ばれながらも、本家ハリウッドのような世界的な街にはならなかった。
また、ハリウッドセレブが邸宅を構える、ハリウッドに隣接するビバリーヒルズのような高級住宅街も生まれなかった。
もちろん、松竹側にも言い分はある。
撮影所から女子大へ
渡辺財閥と比べれば、松竹の大船駅前開発はそれなりに順調だった。
しかし、映画都市を目指していた松竹の目論見は日中戦争の開戦で大きく狂った。
日中戦争の開戦を機に、大船駅前には横須賀海軍工廠深沢分工場が開設された。
同工場では、魚雷・機雷などの兵器が盛んに製造された。
松竹が取得した土地も兵器製造のために芝浦製作所や三菱電機の工場へと転換させられた。
これらの工場が軍国・日本を支えるが、土地を奪われたことで松竹は大船の映画都市計画を縮小させざるをえなかった。
それでも、松竹は長らく拠点を大船に置いていた。
松竹が大船の発展に大きく寄与したことは言うまでもないが、
1995年に松竹は撮影所の一部を映画テーマパーク「鎌倉シネマワールド」へとリニューアルした。
同テーマパークは、松竹創立100年周年の記念事業として竣工。
しかし、不採算を理由にわずか3年で幕を下ろした。
その後も、大船と松竹の関係は撮影所が全面的に閉鎖される2000年まで続いた。
現在、跡地は鎌倉女子大学のキャンパスになっている。
戦後、大船駅前にあった横須賀海軍工廠深沢分工場は国鉄の工場へと改組する。
戦争で規模を縮小させられていた松竹の映画製作は再び活発化し、国鉄は撮影でたびたび松竹に協力した。
戦災復興のさなかで大船では鎌倉市と藤沢市、そして横浜市の間で揺れ動く事態が起きていた。
1939年、鎌倉町は隣接する腰越町と合併して鎌倉市が誕生。
古都・鎌倉は、腰越だけではなくほかの町村も合併して大鎌倉市構想の実現を模索していた。
戦火が激しくなったことで合併の動きは沙汰やみとなるが、終戦後には再び大鎌倉市構想が動き始めていた。
一方、東海道本線の開業により発展が著しかった藤沢も、鎌倉市が発足した翌年に市制を施行した。
藤沢市は周辺市町村とさらに合併することで湘南市の実現を目指していた。
湘南市実現のために、大船町や片瀬町、深沢村にも合併を打診していた。
片瀬町は1947年に藤沢市と合併するが、深沢村は鎌倉市との合併を選択する。
大船町は鎌倉・藤沢の板挟みになっていた。
また、横浜市と合併するという第3の選択もあった。
最終的に、大船は中世から地域的なつながりの強かった鎌倉と1948年に合併した。
ドリームランドが開業
鎌倉との合併も束の間、日本は高度経済成長期に突入する。
東京は人口増が激しく飽和状態に陥り、その余波で横浜市の人口も急増した。
大船界隈でも人口が急増していた。
昭和30年代前半まで、神奈川県内には日本住宅公団が建設した公団住宅は少なく、そのために横浜市は住宅整備に追われる。
神奈川県や横浜市といった行政だけではなく、東急電鉄も住宅地の建設を進めていた。
しかし、整備を進めれば進めるほど人口流入は加速。流入のスピードに住宅建設は追いつかなかった。
記録的な人口増加が続く1964年、横浜市戸塚区にテーマパーク「横浜ドリームランド」がオープンした。
横浜ドリームランドは、興行師・松尾国三が悲願とした遊園地だった。
横浜に先駆けて、1961年に「奈良ドリームランド」が開園している。
横浜ドリームランドは松尾の首都圏進出の野望を満たすテーマパークであり、松尾の遊園地進出の第2弾にあたる。
とはいえ、広大なテーマパークは、すぐにつまずいた。
遊園地が駅から遠いことが災いし、客足は思うように伸びなかったのだ。
横浜ドリームランドは横浜市戸塚区に所在するが、大船駅の歴史を語るうえではずせない存在でもある。
なぜなら、横浜ドリームランドまでのアクセスを改善するべく、大船駅から横浜ドリームランドまでを結ぶモノレールが開業したからだ。
つまり、大船駅は横浜ドリームランドの玄関駅でもあった。
約5.3㎞のモノレール線は、開園から約2年後の1966年に運行を開始。
同線には途中駅がなく、まさにドリームランドためのモノレールだった。
しかし、このモノレールはトラブルが頻発したことから開業から1年半で運行休止を余儀なくされる。
ドリームランドへのアクセスはバスになり、それが道路渋滞の原因になった。
深刻な渋滞は来場者を遠ざけ、それがドリームランドの経営を圧迫していく。
赤字を一掃するため、ドリームランドはテーマパークの一画を県と市に売却。
1972年には横浜市住宅供給公社が700戸超のドリームハイツという名称の集合住宅を、
その翌年には神奈川県住宅供給公社が1500戸超のドリーム団地を竣工した。
ドリームランドに隣接する団地群は駅から遠くて不便なため、団地の自治会がモノレールの運行再開を要望した。
モノレールの運行者であるドリーム開発は、運行再開に約80億円が必要になると試算。
多額な費用がネックになり、運行再開を拒否。
それでも自治会は要望活動を継続。長年の要望はようやく実り、1993年には横浜市の高秀秀信市長が運行再開を表明した。
ドリーム開発の親会社はダイエーだった
しかし、1995年の阪神・淡路大震災が発災。
ドリーム開発の親会社は、神戸に本拠地を置く流通大手のダイエーだった。
震災によって、ダイエーはモノレールどころではなくなり、運行再開は暗礁に乗り上げた。
ドリームランド跡地は横浜薬科大学に転換された。
ドリームランドのシンボルだったホテルエンパイアの建物は、大学図書館としてそのまま活用されている。
その後も、横浜市や団地住民との協議でモノレールの運行再開は模索されたが、2002年に横浜ドリームランドは閉園。
モノレールの遺構も2003年に撤去された。現在、同地には大船駅からバスが発着している。
跡地は、2006年に横浜薬科大学のキャンパスとして再整備されている。
2009年には、バス停名として残っていた「ドリームランド」「ランド坂下」が、それぞれ「俣野公園・横浜薬大前」「横浜薬大南門」に改称。
いまや、モノレールの痕跡を探すことは難しい。
大船駅はスクラップアンドビルドを繰り返しながら鉄道の要衝としての座を固めてきた。
そして、駅の東西どちらにもバス乗り場があり、そこから横浜方面へと走るバス、藤沢方面に走るバスも発着している。
所在地は鎌倉市だが、現在の大船駅からはそれを感じさせない。
今日の新型コロナ感染状況
[2021/3/19 23時59分]国内新型コロナ新規感染者数:1,464人、国内総感染者数:454,944人、累計死亡:8,811人
新規感染者数(3/19):①東京都303人、②大阪府158人、③神奈川県111人、④埼玉県135人、⑤千葉県129人、⑥愛知県47人、北海道78人、兵庫県61人
国内重症者330人(3/19)-325人(3/18)=前日比+5人、PCR検査数48,101件/日(3/17)、死者数33人(3/19)前日比+1人
昨日の新型コロナ感染状況
[2021/3/18 23時59分]国内新型コロナ新規感染者数:1,499人、国内総感染者数:453,483人、累計死亡:8,777人
気になるのは宮城県です。
1月の第3波を越えている日が出ています。
そして驚くべき累計致死率上位の都府県は
この累計致死率を見ると
一番上が大阪府、次が愛知県、全国平均、千葉県、神奈川県、東京都の順となっています。
はっきり物語っているのは,大阪府、愛知県の新型コロナ対策は失敗だったのではないでしょうか?!