今から120年近く前の、1902年(明治35年)1月25日、旭川市で日本の気象観測史上の最低気温であるマイナス41.0℃を記録した。
それ以来この記録は正式には更新されていない。
このブログでも取り上げたが1902年(明治35年)1月25日は八甲田山で雪中行軍の訓練が行われている最中でもあった。
北海道でこの記録というのは今で言う爆弾低気圧で、台風並みの低気圧で東北・北海道一帯は非常に厳しい天候であった。
その76年後の1978年に北海道幌加内町母子里の北海道大学付属演習林近隣の気象観測施設で-41.2℃を観測した。
わずか0.2℃差で日本最寒の地となったが気象庁の観測対象から外れているため認められず、非公式記録のままとなっている。
また、正式には-44.8℃だったが補正値として-41.2℃が記録となっている。
従って公式では上記の旭川市の記録が最低気温(日本最寒記録)となっている。
気象庁の測候所が観測した記録であると確認された場合のみ日本最寒記録として認定される。
この場合は気象庁の施設ではなかったため認定されなかった。
但し、2月17日は記念日として「天使の囁きの日」となっている。
天使の囁き記念日(てんしのささやききねんび)とは、1978年(昭和53年)2月17日に北海道幌加内町母子里(ほろかないちょうもしり)で
日本最寒記録の-41.2℃を観測したことを記念し、1994年に制定された記念日である。(出典:ウィキペデイア)
この幌加内町母子里というのは朱鞠内湖(しゅまりないこ)に接する北東部の地区。
但し、幌加内町の隣町、美深町(びふかちょう)でも1931年1月27日に、当時の委託観測所において、国内の最低気温となる-41.5℃を記録している。
これはどういう扱いになったか、調べても分からなかった。委託観測所?1931年だから?最終的には不明です。
昨日の1月24日、旭川市江丹別(えたんべつ)で、ー31.8℃を記録し、これが今日までの今季日本最低記録です。
やっぱりこの辺が途轍もなく寒いんですね。
旭川で病院の設計監理をしていた時に、冬の寒さを体感した。
この現場では、冬期間は工事を休むという事にしたが、
今のご時世で冬季休業するかは、建設予算次第。
外気温に影響なく寒中コンクリートを打つためには、養生と仮設費次第であろうか
工事現場を足場ごとすっぽりとシートやアクリルや断熱材等で覆い、
内部は、ジェットヒーターなどで暖を入れて工事期間中は零℃以下にしない
と言うためには、その仮設費、養生、採暖費等がかかる。
旭川の現場では、工事費の10%の概算見積りが出されて、あえなく冬季工事休業と言う事になった。
気温記録計を現場に設置し、記録されたのはマイナス31℃。
打ち上がっていたコンクリートの床の上に30㎝位の厚さの氷が張っていて、工事再開の前にそれを叩き割っていた。
旭川に足繁く通っていたのでダイヤモンドダスト(細氷)を何回も見た。
-20℃以下になったよく晴れた寒い朝、朝日に氷の小さなかけらがキラキラと輝き舞う様を始めて見た時は感嘆しか無かった。
が、結構、見られる現象で、旭川の駅前で、そのダイヤモンドダストに見とれている若者の傍を、
身をすくめながら見ることも無く通り過ぎる通勤者はそんなもんに構っていられないという風情であった。
旭川は字の如く、川に囲まれた街で、石狩川、牛朱別川、忠別川、美瑛川などの河川合流部に位置している。
それで、川から発生した水蒸気(真冬でも川の水温はプラス、外気温は-20℃だから)が凍って風の無い穏やかな晴れた日に観測できるらしい。
「旭川」と言う街の名は、市内を流れる忠別川をアイヌが「チュクペッ」と呼んでいると和人が聞き取り、
それを「チュプペッ cup-pet :太陽-川(転じて)日が昇る川」と解釈して、1890年(明治23年)に命名されたものである。(旭川市ホームページより)
ベツやペツ、ナイは、アイヌ語の発音で川を意味していて北海道では多くの地名に見られる。
ニセコ町を流れる川も、尻別川とベツがつく。
JRの札幌から特急に乗ると砂川、滝川、深川、旭川と川が連続して現れる駅名に停車していくのも珍しい。