2020/12/19 07:24

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2020/12/19の鎌倉から見た富士山

昨今のコロナの状況を見ていると怖い。

いつか自分もコロナに感染してしまうのではないか?と

2020/12/19/08:12

2020/12/19 9:38

保健所はなんでこんなに繋がらないの?

調べてみると、

1994年には全国に847あった保健所が、2020年には469に減った

保健所の変遷を調べると

①昭和20年代の結核、伝染病などの感染症対策、

②昭和30年代以降のがん・脳卒中・心臓病などの成人病対策、

③昭和40年代には、公害等をはじめとする環境衛生問題が表面化、成人病対策、精神保健対策、母子保健対策がスタート、

④昭和50年代に入り、健康増進、疾病予防、診断治療、リハビリテーションを包括的にとらえた国民健康づくり運動が始まり、

⑤1982年(昭和57年)には老人保健法が制定され、市町村が老人保健法の実施主体となった。

昭和から平成に入り、精神保健対策の充実、エイズ対策、難病対策、産業廃棄物対策などが新たな保健所の課題となった。

1995年(平成7年)、保健所法が「地域保健法」に変わった。

保健所の統合・再編の結果、2020年現在の設置主体別保健所数は、都道府県が355(1994年に比べ270減)、

人口50万人以上で政令指定の指定都市が26(98減)、人口20万人以上で政令指定の中核市が60(60増)、

保健所政令市(三号市)が5(40減)、23特別区が23(30減)、合計469(378減)となっている。

大阪市では2000年に全市1保健所、各区保健センター化の条例が可決

今日の状況で、大阪市のコロナの逼迫状態を見ると

大阪市という地方自治体が自らの首を絞めた結果なのでは無いでしょうか。

24区にあった保健所をたった1箇所にしてしまった大阪市

「大阪市でたった1カ所になったら、必ず大きな問題が出てきますよ。そうなってからでは遅いですよ」

そういった「保健所を守る市民の会」の警鐘も空しく響く結果となった。

ここになぜPCR検査が出来ないのかの実態が暴かれる!

電話がつながらない、PCR検査を受けさせてもらえない、受けられても4、5月は7~10日待たされるなど、

住民の不安はマックスに

達しました。

保健師の業務は、医師の指示の下で、病状確認、PCR検査の対象か否かの確認、

PCR検査を必要とする人の検査日時・場所の確認と連絡、

PCR検査の結果説明、陽性と判定された場合は感染経路を調べ、入院や施設・自宅療養の振り分け、

濃厚接触者の確認と必要時はPCR検査の勧奨、

自宅療養の場合1日2回病状確認の電話等と多忙を極めています。

人員不足が生じ、健康局(本庁)や各区保健福祉センターなどからの応援に加え、

アルバイト保健師・看護師を雇用していますが、本来一番大切な感染予防業務が十分できない中で、

次々と発生する患者への対応に追われています。

このような現状をもたらした一番の原因が、

847あった保健所を統廃合により469に減らした

厚生労働省のオームページより

これを推し進めたのは誰か?

国民のことを何にも考えてない政治家(与党)の責任だね

今日の新型コロナ感染状況

[2020/12/19 22時00分]国内新型コロナ新規感染者数:2,985人、東京都:736人、国内総感染者数:197,459人、死亡:2,892人

昨日の新型コロナ感染状況

[2020/12/18 23時59分]国内新型コロナ新規感染者数:2,829人、国内総感染者数:194,469人(前日比+2,829人)、死亡:2,853人

昨日の地震[2020/12/18 18時09分]伊豆大島近海:M5.1、最大震度5弱

2020/12/1818時13分震度観測状況(出典:気象庁報道発表)

それ以降も

18:10 駿河湾M4.4、18:49新島・神津島近海M2.9、19:11新島・神津島近海M2.7、20:20新島・神津島近海M3.4、20:23新島・神津島近海M2.5、

20:24新島・神津島近海M2.5、20:36新島・神津島近海M4.7、20:39伊豆大島近海M3.8、20:40新島・神津島近海M3.0、

21:07新島・神津島近海M2.6、21:39新島・神津島近海M3.6、22:08新島・神津島近海M3.0、22:24新島・神津島近海M2.2、22:41新島・神津島近海M3.3、

日付が変わって12月19日

0:10新島・神津島近海M2.2、1:21新島・神津島近海M3.0、 10:32新島・神津島近海M3.0、11:25新島・神津島近海M2.6、

と、震度1以上の有感地震が頻発している。

今日は何の日

1910年(明治43年)、日本で初飛行に成功した日です。

東京・代々木練兵場(現在の代々木公園)で徳川好敏工兵大尉が初飛行し、同じ日、2番目に飛んだのが日野熊蔵でした。

徳川好敏は、御三卿清水徳川家第8代当主。

この徳川好敏は落ちぶれた清水徳川家の再興という身びいきもあって陸軍で華々しく出世するが

好敵手に、滋野清武がいる。

この2人を巡る飛行家としての軋轢も興味を引く。

フランスで飛行免状を取得するのは同じだが

滋野は万国飛行免状、片や徳川はフランス限定の飛行免状であった。

この事もあって、徳川のライバル意識は大変なものだったという。

しかし、片やフランス人と結婚し、音楽の道で食っていこうとしたほどの芸術家肌でありながら、飛行技術も教え方もずっと上だったらしい滋野と

飛行一番乗り(それも同じ日に飛んだのは2人で、順番が最初だっただけ)と言うだけでありながら

徳川御三卿の名誉回復という陸軍筋の身びいきもあって出世した徳川。

滋野はフランスへ渡り第一次大戦で日本人として初めてエースパイロットとなり、有名となり「バロン滋野」と呼ばれるほどであった。

尚、初飛行は2人だったと言うこともあって、代々木公園に「日本初飛行の地」の碑が建立され、徳川と日野熊蔵の胸像が並んで設置されている。

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